与太話 2003/10/13 - 2010/10/24

kowas


第八十六回

エクソダス

初出公開:2003/10/13、最終更新日:2003/10/13

全人口の10%の国民が、その国の資産の90%を保有する国があった。彼らを仮にマイノリッチと呼ぶ。 そして、そのオポジションである10%の資産しか保有しない90%の国民をプアメジャーと呼ぶ。 実はこのマイノリッチは、古い時代の移民であり、プアメジャーとは、民族も文化も異なる。 マイノリッチは、マイノリティとしての不利を、教育への熱心さと、勤勉性によって、乗り越えた。 また、彼らは社会的地位を確保する道程で、政治活動にも強力に取り組み、ほとんどの国会議席を 保持していた。歪な構造を秘めた国家といえよう。

ある時、プアメジャーは革命を起こした。マイノリッチの政治家を様々な理由で更迭し、プアメジャー 出身の政治家で議会を固めた。そして、革命直後の議会で、マイノリッチたちに懲罰的な重税を課す法案 を問うのである。この特別税法は、国際社会にその正当性をアピールするため国民投票によって決められた。 プアメジャーにとってメリットしか存在しないように思えるこの法案は、圧倒的な票数によって支持 され、認められた。

この極端とも思える法案には、マイノリッチから抗議があがったが、すでに成立した法律のこととして 当局はそれを黙殺した。そのうち、マイノリッチは、国を捨てはじめた。様々な手法によって 資産を国外に退避させるマイノリッチ。プアメジャーが彼らの意図に気付いたときには、マイノリッチ の資産のほとんどは、国外に脱出していた。また、移民も成立していた。

教育熱心で勤勉なマイノリッチは、時に優秀な官僚であったり、企業経営者であったりした。彼ら が消えた後、国政及び経済は、たちまち行き詰まりを見せ、この国家は暗黒時代に突入していく。

これは、富める実力者達が弾圧を嫌い、国外に逃亡していく物語である。しかし、実力者達に適当な 逃げ場が無く、戦いを選択するとき、その国はたちまち内戦に突入するだろう。考えて見ると全世界 の資産分布もこの架空の国家によく似たものではないのか。もし、民主主義の定義が多数決とイコールだと したら、民主主義による世界政府の出現はまだまだ無理なのだろう。


第八十七回

攻殻機動隊論

初出公開:2004/3/28、最終更新日:2005/9/3

「攻殻機動隊」 士郎正宗による本作品は、1991年、講談社の漫画雑誌であるヤングマガジン海賊版で発表され、人気を博した。 魅力的な近未来描写と、女性主人公などによるガンアクションが売りではあるが、この作品が現在でも人気と命脈を保ち続けているのは、哲学的ともいえる難解 さゆえである。 私は、本作を「SFとアクションの楽しさでデコレーションされた、神探求の物語」と理解している。 本論は、長文になることが予想されるが、皆様よろしくお付き合いの程。

世界観

「攻殻機動隊」の舞台は、西暦2029年の日本である。未来世界が舞台である以上、現代より進んだ文明の利器が多々登場することになる。その中でも、本論 と強く関連する3つの科学技術についてスポットをあてたい。

  1. 義体技術
    2029年の人類は、高度な義肢及び人工臓器製造技術を手にしている。その技術は、脳以外の器官を全て人工物と取替可能なほどである。これによって製作さ れた身体を義体と呼ぶ。この技術の獲得は、人類が肉体的な不死を手に入れたことと同義である。

  2. 電脳技術
    超微細製造技術の獲得によって、脳内にコンピュータを導入することが可能となった。 作中ではマイクロマシンとして表現されるこれらのコンピュータは、現在のナノテクの延長線上に登場するであろう技術である。

  3. ネットワークコミュニケーション技術
    義体は、脳からの命令を受けて動作をおこなう。義体がエレクトロニクス技術によって産まれたとするなら、脳から発せられる人体への指令信号(電気的、化学 的な)を機械的なデジタル信号に置換える技術が完成しているということである。
    この脳からの人体操作命令を人体の(代替)神経網に流すかわりに、インターネットのような外部のネットワークに流すことが可能なのだとしたら、ネットワー クの向こうにある人体を操作することもまた可能であるということだ。これは宗教的な表現で言えば、霊肉の分離を技術的に可能にしたということである。

以上のような科学技術文明を得た人類は、どのような社会や文化を創り、どのような事件を起こしえるのか。 「攻殻機動隊」は、国際政治または、犯罪捜査の切り口から、この世界を明らかにしていく。もちろん、エンターテイメントでありながらだ。


言葉の定義

私は、序文において、「攻殻機動隊」を「SFとアクションの楽しさでデコレーションされた、神探求の物語」と定義した。

この定義の正当性を論じるには、非常にブレがある”神”という言葉の定義は避けて通れない。その為、ここではその定義を行なう。なお、一般的に言われる 「神学」に挑戦する為の論ではないので念のため。

さて、”神”には種類がある。
大きく、一神教と分類される宗教で信仰される唯一神と、多神教や汎神論で語られるカミ(精霊或いは神性を纏った物体及び概念)に分けられる。
(※ちなみに「カミ」の概念は、宗教学者 植島啓司氏から受けた10年前の講義を自分流に理解したものなので、全く信用しないように。本論の理解の助けくらいに使ってください)

本論で論じようとしている「神」は、一神教で語られる神である。さらに言えばキリスト教で信仰される「神」を念頭においている。

キリスト教の神の特徴及び能力は以下のようなものである。

  1. 全知
  2. 全能
  3. 物質の創造
  4. 生命の創造
  5. 肉体の不死性
  6. 精神の不死性
  7. 空間における偏在性
  8. 時間における偏在性

人類の進歩を考えれば過去から現在にかけて、1. 2. 3. についてなら、神との距離を急速に詰めたといえるかも知れない。4. ですらも、クローン羊の誕生を 考えれば、人類は、神の領域に接近しつつあるということである。

しかし、5. から 8. までの難易度の高さはどうだろう。人類は寿命を延ばすことこそ成功したが、不死には未だ手が届いていない。

さて、人類は、攻殻機動隊世界において「肉体的な不死」を手に入れた。そればかりか、6.精神の不死、7.空間における偏在性まで手を及ぼす者が現れる。

そこまで力をつけた人間の心に、神は存在しえるのだろうか。そして、ここまで神に接近した人間は、人間と呼んでよいのか。人間を人間たらしめる特徴とは何 か。

これらの重い謎に、この物語は幾ばくかの意見表明を行なう。


電脳とコミュニケーション

まず、人類におけるコミュニケーション技術の進歩について考えてみる。

  1. ジェスチャー?
  2. 言葉の発明
  3. 絵の発明
  4. 文字の発明
  5. 数字の発明(数学系の発見はもう以下では述べない)
  6. 郵便システムの発明
  7. 紙の発明
  8. 活版印刷の発明
  9. 電信・電話の発明
  10. テレビジョンの発明
  11. コンピュータネットワーク技術の発明

尚、大括りで進歩を見ただけなので、細かい話は省いてある。これらの技術は、下記の要求をより高度に満足させるために進歩を続けてきた。

これらの要求は、基本的に科学技術の進歩によって解決される要求であろう。ただし、最後のみは、知的な領域での要求である。近年のコンピュータ ネットワーク技術の進歩は、この知的な領域と私が定義した、より正確に情報を伝えるための技術として優れているゆえに、グーテンベルクの活版印刷発明以来 の発明と言われるのではないか。単純な科学技術的進歩とは異なるのだ。

ただし、この技術ですら言語、文字、音、映像といった、従来のコミュニケーションテクニックによって補完されるのであり、この、より原始的なコミュ ニケーション方法が通用しない相手同士のコミュニケーションを完成させるまでの技術ではない。人間同士がわかりあうのが如何に難しいかの証明である。

さて、ここで電脳という技術について説明したい。単純な話、これは人間の脳内にコンピュータを入れてしまうという話である。この脳内コンピュータ は人間以上の演算能力を持つばかりか、インターネットに似た高度なネットワークとの接続を可能としており、内部あるいは外部の情報源とたやすくアクセスす ることができる。常にすぐ情報引き出しが可 能な図書館がすぐそばにある状態と言おうか。そればかりか、自分の疑似体験あるいは考えを電脳によってコンピュータ・データ化することによって、光の速さ で他人に渡すこ とが可能になる。もちろん、その逆も。このことは、他人との意思疎通を極限まで可能にしたということである。

人類の歴史は誤解の歴史といっても過言ではあるまい。さまざまな誤解が、幸福なあるいは不幸な歴史をつむいできた。これらは、人類のコミュニケー ション能力の低さゆえの悲喜劇と呼んでもよかろう。

電脳は、思い込みを廃し(なにしろ図書館と常に一緒にいる状態なので、物事(常識?)の思い違いが起こりにくい)、誤解の発生も回避させる。これで 人類は、誤解に端を発する愚考の輪から抜け出せるのか?というと、少なくともこの作品においては、それは否である。

人が人に伝えたいこと。これはかなり伝わるようになるであろう。しかし、人間の魂(ゴースト)の働きは、どうも理屈では動かない。しかも、この進歩 した電脳の技術は、強いて、相手に誤解を与えることをも可能にする技術でもあったのだ。第3話の「Junk Jungle」において、偽の記憶を脳内に埋め込まれ、テロリストのテロに図らずも加担してしまう市民の姿が描かれる。(しかも、そのテロリストすら、あ やつられた男だった)

進歩した科学技術は、人間のあらゆる感覚を拡張し続けてきたが、人間の魂を拡張することはできない。このテーゼを覆す思想はあるのだろうか。


魂(ゴースト)論

SFでよく論じられるテーマとして、コンピュータに魂(ゴースト)を与えることは可能か、がある。 本作品世界では、コンピュータ技術の進歩によって魂(ゴースト)に似たものを作り出すことはできるようになった。 しかし、魂の完全コピーはできないとされる。

脳以外が機械と置き換え可能な未来。ここまでの科学技術を手に入れた人類が、脳をも機械に置き換えられないかと考えるだろうことは容易に想像ができる。既に脳髄液には微生物のように微細なマイクロマシンが無数に溶けており機能拡張はできた。しかし、人間の魂というものがどこからくるのかわからない限りは脳そのものの置き換えはできない。

脳という器官を一種の機械と理解して、生物的な生理や機能、生理に影響を受けやすい欲望などの、雑音的な余剰物をを取り除くと、真のアイデンティティを取り出せるはずだ。その部分が魂といえないか。

機械というのは、その真のアイデンティティを持たず、人間が表面的に見せる外界環境への反射的な行動をなぞり、真似する存在でしかない。人間でもある部分そうだといえるものの、将棋の定石のような、こうくればこうというような莫大な想定問答集にあわせて行動しているのであり、人間がおこす一種不合理な跳躍をおこすことはない。この不合理な跳躍をなさしめる源泉こそが魂(ゴースト)の発露といえる。機械が想定問答集をなぞるものである限り魂は獲得しえない。

SF作家、小松左京氏が小説「虚無回廊」において、記したことによると、人間と人工知能の差は目標設定能力を持っているかどうかである。この目標設定とはミクロな意味ではなくて、自分がどのような人生を選択したいのかを決定するプロセスをもつかどうかを指す。これを信じるのなら、不合理な跳躍の源泉云々という説明より、「時に不合理な選択をも含む目標設定能力を有するかどうかが」が魂の有無を論じる場合の質問としてふさわしいといえよう。

作品中盤以降、「人形遣い」という、情報ネットワークの海で魂(ゴースト)を獲得した人工知能が現れる。「人形遣い」は日本外務省が政治活動に利用するために製造した、高度な人工知能であったが、情報ネットワーク上であらゆる情報に接し、分析していくうちに魂(ゴースト)を得る。一度、この人形遣いは破壊され、主人公の草薙素子は後にこれを「人類三大事件のうちのひとつになりえたかもしれない案件」と表現する。


人間、超人、神

人類は科学技術によって超人になる術を手に入れた。ここで言う超人とはニーチェが言う超人ではなく、人間の限界を超える人間を指す。人間と超人との差異は、脳を含めた肉体機能の拡張に本質があると私は考える。

翻って、超人と神との差異を表現するのは困難であるが、あえて言うと、肉体以外の部分である魂(ゴースト)を拡張できるかどうかにあると考える。

本作品の宗教的な部分。「人形遣い」は実は破壊されていなかった。彼は電気信号で構成された世界、すなわち情報ネットワークを住処としていたが、情報ネットワーク以外のネットワークが存在することに気づいていた。このネットワークは物理的な制約を持たないように見え、草薙素子はこのネットワークを「電子でも磁気でもないもろいネットワーク」と表現する。そしてそのネットワークは神の世界であるかのような暗示がなされる。肉体というきょう雑物をもたない人工知能のほうが、純粋な情報のみの存在である神を知覚しやすいと述べているようだ。

その神の世界とネットワークでつながる「人形遣い」は再び草薙素子の元に現れ、魂(ゴースト)の融合を提案する。情報的な存在である「人形遣い」は、その種の保存のために子孫を残すことを希望した。複製と言う意味では、彼に限界はないが、バリエーションを持たない存在は、ある特定の破局に対して無防備であり、全滅の可能性を持つ。これをさけるために多様性を獲得することで、残存率をたかめることを考えた。つまり、不完全な肉体(脳を含む)を持つがゆえに、種としての「ゆらぎ」を保持する人間との融合を望んだのである。

複数の魂の融合は、融合前の魂と比較してどのような優位性をもつのかを理解するのは困難だが、組織論でいけば、単一の価値観にようる集団よりも、様々な価値観による集団のほうが、高い効率を持つされていることから、なんらかの優位性が現れると想像できそうだ。

クライマックスで、草薙素子は「人形遣い」と融合を行う。融合後のアイデンティティーがどのように保持されるのかはわからないとされるものの、魂の融合がなされたのである。魂の融合とはまるで神々の結婚の暗喩のようでもある。

最終ページ。草薙素子は同僚にして親友であるバトーに以下のように語り掛ける。

「あなたは知ることになるわ。人間が宇宙の種であることや、”情報の高効率なパッケージ”・・・生命の偉大さをね・・・」

人間とは魂を核とした情報を未来に伝えるための高度なパッケージであり、大いなる可能性を秘めている。わずか二つの魂の融合ではまだ神にはなれたと言えないものの、少なくともそれによって草薙素子は神への長い道へと歩を進めたのである。

「さあてどこに行こうかしらねぇ。ネットは広大だわ・・・・・・」

以上、私が「攻殻機動隊」を”神探求の物語”であると考える理由を長々と述べさせていただいた。お付き合いありがとうございました。


第八十八回

泥棒漫画の後継者

初出公開:2004/3/28、最終更新日:2005/9/3

「ゼロ」という贋作家が主人公の漫画がある。 私はこの漫画をルパン3世を頂点とする泥棒漫画の後継だと思っている。 「ゼロ」の物語の基本構造はこんな感じである。

なんらかの理由で贋作が必要な人物がいる。ゼロ(通り名だ)は、依頼者の命の次くらい大事なものと 引き換えに贋作の作成を引き受ける。ゼロはあらゆる手を尽くして過去と同様の画材等、材料を掻き集めたのち、作品製作の 時代背景や作者の人生を辿ったりしながら作者の本質へと迫り魂まで作者になりきって作品を模倣する。 そして最後に依頼者を助けたり、破滅させたりする。

この物語がなぜルパンの後継なのか。とりあえずこれらが同じピカレスクロマンであることは違いない。 だが、私が述べようとする本質とはそれとは異なる。本論に突入する前に「ルパン3世」の話をしよう。

「ルパン3世」はいわずと知れた、人気泥棒漫画であった。個人的にルパンがルパンたりえた時代の終わりは、 1979年12月15日封切の宮崎駿が監督した「ルパン3世 カリオストロの城」である。実はその宮崎駿でさえ ルパン3世製作を依頼を受けて「盗むものがない」という理由で一度断っている。

「泥棒」がロマンになりえたのは、泥棒が盗む財宝がファンタジーであった時代で終わっている。泥棒が ロマンであるためには、ファンタジー世界においてドラゴンが守る大事な何かのごとく、金銭に換算 できてはいけない。実際、ルパンが過去の物語で盗んだ名画や宝石は換金できない象徴のようなものだったし、お金を盗む時は 造幣局を狙うことでお金の価値を記号化している。 ところが現在はなにものをも金銭と置き換えることができてしまう時代である。考えてみれば、世界に名だたる名画でさえ東京 都心で建てる豪邸ぐらいの金銭価値でしかない。これでは興ざめである。「盗むものがない」という理由はまさにこれを指しており、読者(あるいは観客)が「盗み」にカタルシスを得るに足る「財宝」の設定がむずかしくなっている。

ルパン3世がロマンとしてなりたつ為には、彼が金銭価値を超えるなにかを盗み続ける必要がある。しかしそれは宮崎駿が「カリオストロ・・・」で盗ませた湖中のローマ遺跡でしか成立しない類のもので、その上何度も使える手ではない。

話は「ゼロ」に戻る。 「ゼロ」では贋作が製作される過程で、一般の人間には価値が理解しがたい芸術作品が一体なにものなのかを突き詰めていくことで物語が転回する。 時代を経て現代に残るほどの芸術の創造者は時に超人的であり、時に狂気を感じさせる。その芸術家が放射する過剰な「なにか」と贋作を求める依頼者の感情が読者に金銭に置き換えられない価値の存在を感じさせる。 しかし、ゼロが創るそれがいかに本物に近づけたとしても究極には贋作なのだ。主人公はあくまでリアルだと言い切るがそれは詭弁でしかない。その行為は価値を語りその一方で盗む行為だ。芸術品という価値からなにか本質的なものを盗みとり、その正体について読者に謎掛けする。

「ルパン3世」がすでに価値を認められたモノを盗む 物語であるのに比べて、「ゼロ」はそのほとんどをその価値の説明に費やしその後の付け足したような短いページで盗む。それが20世紀のピカレスク物語と21世紀のそれとの違いなのだろう。


第八十九回

デスノートの疾走感

初出公開:2005/9/3、最終更新日:2005/9/3

「幻魔大戦」「エイトマン」の平井和正が娯楽小説を「タバコのようなもの」といい、「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるが少年漫画を「チューインガム」になぞらえたように、エンターテイメントを目的としたメディアは、刹那的な面白さを提供する宿命を負う。

「デスノート」という少年漫画がある。この漫画は2003年12月に週刊少年ジャンプで連載が開始された。 警視を父親に持つ天才少年が、偶然、本名を書き込むと、対象者を殺すことが可能というノートを手にいれることから展開するサスペンス漫画である。 この梗概を虚心に読むと、なんと陳腐でありふれたくだらなさそうな漫画と思える。ところが恐ろしいまでの面白さでヒットし続けている。

この面白さのありかは、小畑健による絵のうまさと原作者大場つぐみによる抜群のストーリー展開によるものはもちろんだが、本論ではそれ以外の理由を指摘したい。

さて、かなりスレた漫画読みである私にとって驚きであったのは、この物語の出し惜しみのなさであった。梗概を思い出していただきたい。この物語の基本アイディアはまったく陳腐かつジャストアイデアであり、展開が速くなりすぎるとあっと言う間にネタ切れが訪れることが想像された。にも関わらず、この物語はハイペースでクライマックスを提示し続ける。単行本でなく、連載を追いかけていた自分にとっては毎回が刺激的であった。「そこまでやるか」というのが感想であった。

掲載誌の少年ジャンプは、残酷までに人気投票に依存しており、少しでも読者アンケートの結果がよくない漫画はあっという間に打ち切りの憂き目に会う。その恐怖感がこの物語の出し惜しみのなさの源泉となり疾走感を現出せしめたのであろう。

「グラップラー刃牙」「飢狼伝」の板垣啓介によるととっておきのアイディアというものは常にひとつしかないという。そのアイディアを使わない限り次のとっておきは出現しない。大場つぐみはいつ打ち切りを宣告されるかわからないというプレッシャーの中で、毎回最強のアイディアを投入していたのではないかと考察する。 ちなみに1部を完結し2部に突入した本作は、長期連載による余裕からか刹那的な展開が影を薄めており、以上でのべたストーリー以外でのスリリングさは失われたと思う。

「デスノート」は毎週全力投球という面白さと物語の全体感における整合性において破綻のない稀有な例だが、週刊少年漫画のエンターテイメントの宿命として、毎週部数を売り上げなくてはいけないゆえに、破綻のないストーリー展開と毎週の刹那的な面白さを比べると後者のほうが重要視される。ストーリー漫画ともなると物語の整合性を保つために状況整理の回が必要になるのは必然だが、ジャンプではそれが許されない。その極限のなかで、「アストロ球団」「リングにかけろ」「魁!男塾」「キン肉マン」のような傑作が生まれたといえる。これらの漫画は、刹那的な面白さを追求するあまり、物語の整合性どころか、物事の原則や物理法則すら軽がると無視している。

その週で掲載されるページが15ページならば、その尺にあわせたチューニングを施されているのだ。その証拠に単行本で読んで面白い漫画と毎回が面白い漫画は異なるという現象が存在している。

このような原作モノがアニメ化やドラマ化されたときにしばしば面白くなくなるのは、15ページの面白さにチューニングされた作品をそのまま30分なり2時間なりに適用したためであり、新たに与えられた尺にあわせたチューニングを施してはじめて、それにふさわしい面白さを獲得するのである。


第九十回

電子書籍時代の恐怖新聞

初出公開:2010/10/24 最終更新日:2010/11/6

恐怖新聞」は1973年から1976年まで漫画雑誌に掲載された人気オカルト漫画である。 恐怖新聞には霊魂の存在や不吉な未来のニュースが掲載されており、1日読むごとに100日ずつ寿命が縮まってしまう。 恐怖新聞の届け先として選ばれた鬼形礼(主人公)は、恐怖新聞の予言通り様々な超常現象に巻き込まれ次第に寿命を縮めていく。

さて、この物語では呪いが新聞というメディアに乗って届けられることになっている。今思えば斬新なアイデアである。 身近なアイテムである新聞の性質を利用して、この物語に対する読者の共感と恐怖をうまく引き出している。 読者は恐怖新聞がどのようなものか、自宅に届けられる新聞を媒介にたちまち理解するだろう。

主人公の敵役として、ポルターガイストという霊が配置されている。それは、生前、新聞配達をしていたと説明される。 ポルターガイストは、死んで悪霊となっても生前と同様に新聞配達をしているのだ。 ただ屁理屈をいわせてもらうと、幽霊というものが人間の妄念が死後も残ったモノだと考えたとき、 この霊のやりくちは小賢しいというか高度に知的すぎないだろうか。

ちょっと話を変える。ホラー小説「リング」では、呪いを伝達するメディアとしてビデオテープが選ばれている。 新聞よりさらにハイテクじゃんという気もするが、呪いがビデオテープに転写してしまったと考えれば、 恐怖新聞と比較して文章を書くという知的な作業を経ていない分、霊にもできそうな気がしないでもない。

いや待て、ビデオデッキで再生しないと発動しないという呪いはどうなんだろう。 呪いにはそんな時限爆弾的な機能があるというのだろうか。 そういえば、見ないと呪いが発動しないという意味で、心霊写真も同じ構造がある。 呪いを運ぶ入れ物自体に呪いがかかっていても良さそうなものだが、 呪いのビデオテープ(そのもの)とか呪いのフィルムは何故か見たことも聞いたことも無い。

ビデオテープのような物体ではなく、 画像のようなコンテンツこそが呪いの伝播にとって重要なのだとしたら、 YouTubeのような動画サイトを経由して呪いを頒布することも可能である。 霊が呪い感染者をできるだけ増やしたいと考えているなら インターネットは非常に有効なメディアである。

ただ、問題があって、その場合、霊はどのようにして、その怨念をアップロードするのだろうか。 YouTube のストレージに向かって念を飛ばすのか?それとも君のパソコンを経由して念をアップロード(!)するのか? 現実的(実際は非現実的な話しかしてないけど)には人間を支配して心霊動画(または写真)をアップロードさせるのであろうが、やはり霊が知的過ぎる。 まず霊がYouTubeの存在 を知っていないといけないし、そのメディア戦略(!)の有効性を理解している必要がある。 やはり怨念に凝り固まった霊が、そんな考察を巡らせることが可能とは思えない。

YouTube に気付けない霊が今後も新聞というメディアを利用し続けるとしよう。 しかし、新聞というメディアは、インターネットや電子書籍などの情報通信技術の進歩に押されて、絶滅の危機を迎えている。 もし、新聞というメディアが無くなった場合、恐怖新聞はどうなるのだろう。 やはり恐怖新聞も電子版に移行するのだろうか? 気がついたら、知らない新聞アプリが無理やりダウンロードされていたりするのか?

やはり幽霊が知的過ぎるし、あまつさえ、電子書籍アプリを霊が開発しているのなら技術力が高すぎて笑える。 情報通信技術の進歩は我々にとって情報へアクセスするためのコストを引き下げるが、霊にとってそうではなさそうだ。 むしろ、ハードルが上がっている。残念な結論になるが、電子書籍の時代では恐怖新聞は休刊になるんだろう。やっぱり。

おまけ:「恐怖新聞 平成版」(2002年、恐怖新聞 平成版、講談社)という続編も存在する(読んだことないけど)。 こちらの恐怖新聞は携帯メールで届くらしい。 新聞アプリが勝手にダウンロードされるよりはアリだと思うけど、やはり霊が知的すぎる。